Miyuki AKIYAMA, Melting mountain, 1000×803mm,
acrylic, oil on canvas, 2007
Miyuki
AKIYAMA | 秋山幸
絵画の不機嫌さについて
学生時代、大学内の秋山幸のアトリエを初めて訪問したときのことを記憶している。筆者がそこで目にしたのは、正確に言えば、絵画というよりも、未だ絵画ならざるなにものかであったと言ったほうが適当なたぐいのものだった。具体的な対象を指示しないような太い線描、あるいは風景的要素やコラージュ風の図像の断片、盛り上がった顔料の塊・・・・・・そうしたものが、ほとんど無造作に平面上に投げ込まれている。絵画的なメチエを習得した者であればためらわれるであろう、異質な要素同士の結合。ほとんど暴力的にそれらの要素を一枚のキャンバスに畳みこんでゆく作家の手つきは、さながら実験家のものであり、それゆえにその絵画は「完成」や「成熟」といった概念のことごとくを駆逐していたと言ってもよい。秋山がよく語ってくれるように、それらは単なる平面が絵画として「立ち上がる」瞬間にたいする驚異のようなものによって支えられていた。秋山にとって、平面とは異物をどれほど受け入れたとしても、それでも絵画として「立ち上がってしまう」ある種の驚異的な対象物だったからである。それが彼女に、絵画における実験家のような立場をとらせたのだった。
秋山の作品は大学での制作を終えるとほぼ同時にコマーシャルな場での発表の機会を得たが、それらの絵画は飛躍的な成熟を印象づけるものだった。筆者にはしかし、その飛躍を複雑な思いで見ていた節が少なからずあったことを告白しなければならない。その絵画の成熟は、社会的な生産物として「完成」され、ひとつの世界として「完結」した作品を提出しなければならない者の宿命だったのだろうか。そこにあったのは過不足なく複数のイメージが連動的にひとつの平面と調和した世界である。しかしながら、作られた絵画と、絵画を作ることとは全く異なった次元において成立するものであったことを誰よりも知っていたのは彼女であったはずである。
たとえば我々は、岡本太郎という、生産物としての絵画を提出することに対抗し、未完成の、それゆえにいつでも手をつけられるはずの、現在進行形の膨大な量の作品を残して撤退した人物の名を知っている。彼が徹底的に退けたのは、そのような、生産物としての絵画と、絵画の生産過程との混同である。生産過程において絵画は、絵画としての成熟を拒否する、つまり我々の眼に心地よく触れあう、作品と観者との馴れ合いを攻撃する不機嫌さに満ちた幼児のような粗暴さによって、その平面性を露にするのだから。
秋山の近作に導入された複数の色彩からなるリング状の描写は、その円環的な構造によって、平面に運動性を付加するための装置のようなものであると言えるかもしれない。かつての実験家としての性質が復活してきているというべきだろうか。機械状の仕掛けによって平面を徐々に駆動させること。そして平面とは、出来事を生起させる実験のための現場であり、制作者はここでも実験家のような相貌をまとうのである。
沢山遼(近現代美術史)
Daisuke OHBA, UROBOROS(spectrum), acryl on cotton
and wood panel, 500×500mm, 2008, photo:木奥恵三
Daisuke
OHBA | 大庭大介
崇高な恐怖の襲来
あたかも真昼と真夜中から身を翻しつつ、中観派的な「光の死」を表象しているかのような作品「ウロボロス」の作者をラスコーの洞窟の闇の住人ではないかと、この絵画作品に接したときに筆者は勝手に直観した。
一万七千年前の洞窟の中で描かれた躍動感と生命力に充ちた一角獣や牡牛、鹿、馬などが輪舞するイメージ群は、洞窟の闇の中に射し込む暁の薄明かりによって描かれたものである。「ウロボロス」の作者である大庭大介に制作方法について問うと「プロジェクターでイメージを浮かび上がらせながら、闇の中で作品制作している」とのことであった。やはり「洞窟の人」であった。ちょうど作品「ウロボロス」に遭遇する前に、或るインディーズ系のB級洞窟アドベンチャーホラー・ムーヴィを筆者は観ており、その映画の舞台となる洞窟への道程である森の光景とこの作品イメージがどこかで通底し重なっているのではないかといった一方的な思い込みを作家に思わず洩らしてしまった。驚いたことに大庭曰く「その映画にインスパイアされたイメージによって『ウロボロス』を制作した」とのことだった。映画タイトルを忘れたので、彼に聞くと2005年12月英国インディペンデント映画賞で作品賞を受賞した「Descent-ディセント」という映画であった。「Descent-ディセント」とは、「降下、(不意の)襲来、急侵入」などと言う意味があるが、この映画の舞台となっている洞窟の開口部は、地中の奥深く入り組んだ果てなき迷路への『降下』を誘う。6人の女性冒険家らは、ぽっかりと空いた真っ暗な洞穴に案の定『降下』していく。先住者にとって彼女らは『侵入者』であり、「アルタード・ステーツ」な生き物が彼ら『侵入者』を『襲来』するというストーリーである。
ジョルジュ・バタイユは、自らの著書「ラスコーの壁画」の中で「ラスコー人」(=先住者)を、理性的人間を尊ぶ傲慢な人間中心主義に陥っていない「ホモ・サピエンス」として定義付けている。18世紀以降の西欧において、光が闇を駆逐したときに奇妙な反転が起こった。光は救済であることを止めて、世界を休息なき存在へと変容させた。さらに自業自得と言ってしまえばそれまでだが、ディシプリンに蹂躙された住人たちによって光の国が現前化されたのは、記憶に新しい。
大庭大介の作品のタイトルになっている「ウロボロス」とは、「尾を貪り食らうもの」の意のギリシア語である。’「スコットランドの女王メアリーは金の指輪に『わが終わりにわが始まりあり』、おそらく真のいのちが死後に始まるという意味の文句を刻んでいたという話しが伝わっている」とボルヘスの著作「幻獣辞典」の「ウロボロス」の章に述べられている。闇を廃棄した光の国は、我々に生を強要し死を忘却させる。そして遂に20世紀の我々がつくりだしたもうひとつの光によって、人類は絶滅するのではないかという予兆に苛まされている。「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」というアメリカ先住民の神話研究を行ったレヴィ・ストロースのことばがいつまでも洞窟の中で反響してる。
飯田高誉、インディペンデント・キュレーター

Hitoshi KURIYAMA, ∴0=1 -光痕trace of light, type
C print , acrylic board, fuse, variable , 2007
Hitoshi
KURIYAMA | 栗山斉
Death. Release. Rebirth.
Whatever you believe -- religion, philosophy, science -- it is
obvious that something goes on in the "end," call you
what it may. Death or destruction is just the passing of an individual
thing from one state of being to another. In art works that use
common electrical components that are taken for granted in any
household, Hitoshi Kuriyama tries to express this truism. Lightbulbs
become lessons in the ephemeral as they go from shining to flickering
to burned out. Here, a flourescent tube powered by electricity
-- a life force -- was one thing, and now, free of that energy,
it becomes another.
But what of the life of light outside of the source that emits
it? Kuriyama's latest work, ''0=1 –trace of the light'' tries
to show the moment of transition when something releases its energy.
The 28-year-old artist pushes electrical fuses until they break
-- and die -- in a flash of light. He captures the moment with
treated photographic paper that absorbs the individual signature
of each fuse; in "life," one fuse looks like any other,
a small glass tube capped with silver metal that serves a purely
utilitarian purpose. But in their transition to purposeless --
a broken fuse does us no good -- they leave behind a unique visual
footprint.
Like an artist's renderings of distant gallaxies or attempts to
capture someone's glowing aura, the photographs show clouds of
colors, glowing blues, greens, oranges fading into yellows, pinks
and more. Some explode across the frame, others focus slightly
off the center. And each shows a personality that was not obvious
from the sources; anonymous and identical, the fuses stand before
the images of their moments of release, a reminder that you never
really know what lies within.
Kuriyama, who works at the Japan Aerospace Exploration Agency
as a photo archivist, was inspired by supernovas. Fierce bundles
of energy, when these dying stars explode in a final, powerful
burst they release torrents of light that take on a life of their
own, shooting across the universe. Like his works, they are a
clear indication that the death of anything is simply a transformation
to a new existence: What was once a mass of heavy material — the
supernova — has become pure energy — the beams that speed away.
In this the works are like a metaphor for human lives. Whether
you consider it the soul, energy or some natural order of material,
with our deaths, what was our body becomes something else. Kuriyama
says that he has no personal opinion about the nature of that
transition, but points to traditional Japanese cultural icons,
cherry blossoms blooming, falling and withering away in spring
and fireworks bursting into light and then fading into the darkness
in summer, as similar phenomenon.
So here, for a record, are such moments of transition captured,
bright and varied, a reminder that the end is not the end.
Donald Eubank, The Japan Times Arts Editor