Gallery Talk by Kentaro ICHIHARA+Shigeo GOTO 「WORM HOLE(1)」
February 4,7-9pm

 


出演者(写真左から):大谷昌也/大野智史/塩田正幸/市原研太郎/後藤繁雄


——【後藤】
 ここマジカル・アートルームは新人発掘を主な目的として、市原研太郎・岡田聡・ヒロ杉山・吉井仁実・後藤繁雄の5人によって共同運営しております。今日の前半は市原さんと私がマジカルのコンセプトを9.11以降のアートという視点からお話しして、後半はWORM HOLE episode1参加アーティストのうち大野君、大谷君、塩田君にお話していただきたいと思います。また岡田さんがもし会場にいらっしゃったら、加わっていただきたいと思っています。
 その前に3人の簡単な紹介をしたいと思います。マジカルという言葉が今回出てきたきっかけは、岡田さんが以前『魔術的芸術』という展覧会を企画されたことと繋がってくるのですが、岡田さんは現代アートのシーンをバックアップしてゆく存在として活躍されています。また市原さんは批評という理論的な立場から現代アートに関わっており、9.11以降のアートについて最もラディカルな提言をしている評論家であります。それと同時にマジカルのようなスペース運営にも携わり、積極的に活動なさっています。私は京都造形大学でアートマネージメント学科の活動をしつつ、ジャーナリズムという立場から現代アートの可能性を考えています。
 ではさっそく市原さんの方から、マジカルのコンセプトと今回の展覧会タイトルであるWORM HOLEという言葉をどのように捉えているか、お話ししていただきます。
——【市原】
 当初、社会状況に対してどういった態度で臨むか、またどういったアートを空間の中で見せたいかという話し合いをメンバー5人でする中で、岡田さんの発案された「マジカル」というコンセプトに決まりました。最近マジックつまり魔術という言葉は、近代の資本主義の登場によってマジックというものがもし復活するならば、という話の中で使われています。近代が合理主義を形成してきたとすれば、マジックとは合理主義を斜めから見る立場と言えます。それは近代を大きな力で推し進めてきた資本主義の最終形態とも言えます。消費社会や情報化社会の中ですべてのものがスペクタクル化されている、そうした現代の状況をマジックと捉え、「再魔術化」という言葉を掲げる立場があります。また、シュールレアリスムの立場からマジックを捉えることもできます。しかし私は、資本主義の最終形態としての「再魔術化」に対抗するものとして、あえてマジカルという同じ言葉を用いたいと思っています。
 私はマジカルというテーマを「内在性」という言葉と結びつけて、このスペースの活動を進めていきたいと考えています。内在性という言葉もまた、資本主義との関連で語られてきました。その立場は、近代の資本主義がすべての世界を巻き込んでしまって、外部がないという状況を内在性と呼んでいます。私はここでもまた、この内在性に対抗する意味で、同じ言葉を用いたいと思います。つまり資本主義によってできた大きな状況をひっくり返すムーブメントとしてのマジカルと同じように、資本主義の内在性に対してアートの持つ内在性が戦いを挑むという図式を考えています。このアートスペースの活動や参加アーティストの試みが、大きな力に対抗し、私たちすべてを包みこみ、さらっていくということを目指していきたいと思います。そのような考えから、私はこのアートスペースへの参加に同意しました。
 次に、今回の展覧会タイトルである「WORM HOLE」について話したいと思います。現代の天文学や物理学では、WORM HOLEという言葉が、ブラックホールとホワイトホールをつなぐタイムマシーンのような装置として捉えられています。今回のWORM HOLEというタイトルは、1つの大きな宇宙の中にもう1つの宇宙を捏造し、それによって大きな宇宙に戦いを挑もうとする、こうした意味のメタファーとして考えていただければと思います。
——【後藤】
 市原さんは理論的な立場から、現代アートを取り巻く大きな状況を提示してくれますが、その理論が作家の関心とかみ合うかどうかという議論は必要だと思います。というのも、アーティストや今日いらっしゃった方の中には、作品がどういう基準で選ばれ、どういう可能性があるのかという問いかけをしたい方もいると思うからです。
 ゲルハルト・リヒターはよく「最後の画家」と言われますが、その後も色々な作家は活躍しているわけなので、「勝手に最後と決めつけるな。」と思うことってありますよね?このように「歴史は終焉したか」という問いかけはモダニズム的であると思います。それに対してポスト・モダン的な考え方では、何かの起きた後の時期、つまり事後的な時期という意味でのゼロ点が、第2次世界大戦後、9.11後というように複数あるとされます。モダン的な考えではものごとが進化、発展していくとされますが、ポスト・モダン的なものは分裂的で、主体があるかどうかわからない、流動的であると言えます。今回選ばれた作家さんたちも流動的という意味で強度が強いというわけです。
——【市原】
 後藤さんは現代の状況認識において「事後」という言葉を強調されましたが、私の場合、9.11が契機となって、新しい状況がまさに「始まった」ということを意識しています。私には、今起こっている状況は9.11がなければ生じなかったと感じられます。私はこうした現在の状況に対して、アートがどのように切り込んでいくことができるか、またはどのような提言ができるかについて考えています。だから戦う武器としての強度を持った作品に興味があります。強度にも色々あって、20世紀後半の動向のように物理的、物質的な強度というのもありますが9.11によって物質的な強度を持つツインタワーが崩壊したため、それとは別の強度がアートに求められていると考えています。
——【後藤】
 私は流動性や乖離、すなわち分散していく力が強度だと思っていますが、市原さんは強度について「戦い」というおもしろい表現をされました。その具体的なイメージについて説明してもらいたいと思います。
——【市原】
 アントニオ・ネグリの『帝国』は資本主義のグローバル化によって中心と周縁の区別がなくなったということを予言したと言えますが、9.11はそれをはっきりと示し、私たちがそれを自覚したという意味では大きな出来事だったと思います。アートはそうした状況から独立した孤高の領域として存在することはできないとわかったのです。ですから、もしこの状況と戦おうとするアーティストがいるとすれば、資本主義の外に立つことはできないので、その内部で戦うしかないのです。このことが、内在性を武器にするという考えにつながります。外部にある素材を武器にすることはできないので、内部に小さな宇宙を作り上げて戦うことしかできないのです。私が今おもしろいと思うのは、内在性を作り上げることで戦うアーティストです。
——【後藤】
 自分では戦っていると思っても、端から見たら苦しんでいるだけと思える行動もあると思うのですが、その点はどう考えますか。
——【市原】
 今日、従来の戦争のように外側から戦うことが不可能な状況になってきています。例えば現実に起きているように、テロリストがアメリカの帝国主義に対して戦いを挑むということは、アメリカで軍事訓練を受けたテロリストたちがアメリカに対して牙を剥くということです。
——【後藤】
 それはアーティストがテロリストのアナロジーであると言うことですか。
——【市原】
 アナロジーとして捉えることも可能だと思います。アバンギャルドという軍事用語がアートに転用されたという先例もあります。
——【後藤】
 では、自分の身体を傷つけるという行為は戦っているというよりも滅んでいるという感じがします。市原さんはそういった立場のアートを評価しないということでしょうか。
——【市原】
 身体をめぐる様々な出来事も、外の世界との連続線上にある一つの内側の世界として考える事ができると思います。つまり小宇宙に対して自らをマゾヒスティックに滅ぼしていく作業は大宇宙を滅ぼす作業にも繋がるわけです。自傷行為をする人も社会と戦っていると言えるでしょう。
——【後藤】
自爆テロですか。
——【市原】
 そのように言うこともできます。もちろんすべてのアーティストが攻撃しなければいけないとは言っていませんが、時代にどうやって切り込むかという時に、自傷行為のようにマゾヒスティックな行為によって創造する人もいると思うし、昔からいたように身体を使ってパフォーマンスをする人もいると思います。様々なやりかたがあるわけです。そして今日ここにいらしているアーティストはそれぞれの仕方で時代に切り込んでいると、僕は見ております。
——【後藤】
 そうなんです。そこで今からアーティストにも話していただきます。とはいっても今の話の裏付けをとるために話してもらうわけではないので、隣の部屋に行ったと思っていただければと思います。今日いらっしゃった方には両方の部屋を見ていただいて、両者にシンクロするところがあれば良いし、シンクロしないところがあっても、それでも良しと思ってほしいんです。
 それではまず大野君、今の話を聴いた意見や自分の作品について話してもらえますか。
——【大野】
 僕の描いた丸い自画像には同一人物の顔が縦に2つ並んでいます。これは分裂症ではないですが、1つのものとして捉えられないものを解体し、画面の中に留めたいと思って作りました。 この点は市原さんのおっしゃる内在性という言葉と関係があるかもしれません。
——【後藤】
 では大野君がなぜ木を描くことになったのかという話をしてもらいましょう。
——【大野】
 もともと市原さんがおっしゃったのとは全く関係がない所で、9.11に対する作品を作っていました。しかし自分の置かれた状況と9.11との差がどうしても埋まらないことから、作品を作る事への不信感があったんです。そこで僕の家から一番近い横田基地に写真を撮りに行ってみました。イラクの人が気づけないような所で、東京に住む自分も何かできるんじゃないかと思ったからです。基地の中には杉の木がありました。基地というのは、色々な施設が壁に囲まれて地域から隔離された場所と言えます。こうして戦争のために人工的に作られた場所の中でただ1つ中立的な立場をとっているもの、または人間の手の及ばない所で成立しているものが植物だと思いました。
——【後藤】
 今の話には我々と接点がありましたね。大野君の作品を選んだ市原さんはこんな話を知らなかったんじゃないですか。
——【市原】
 いえ、ある程度知った上で選びました。彼の作品には自然の様々なイメージが使われています。しかし彼の作品は、従来のアートのように自然と人工だとか、自然と都市というような二項対立を前提としていません。彼の描く樹木は自然でも人工でもない中間のものであり、また境界線上にあるのかないのか不明確なイメージという感じがします。我々が見れば樹木だと分かるのだけれども、樹木という概念でもないし、もの自体でもない。僕はこうした概念ともの自体との中間にあるものを「観念」と呼びたいと思います。この観念こそが内在性の世界を構成する要素なのではないかと思います。大野君の作品を躊躇なく選んだのは、内在性の世界を構築するひとつのモデルを提供してくれていると思ったからです。彼の作品に描かれているものは非常に単純でありながら、未知の世界を作り上げており、その中でうごめいている何か、我々の今までの考え方とは異なる新しい観念の動き、または胎動みたいなものが感じられます。
——【後藤】
 市原さんの言う観念とは、ある種のイメージでありながら、物質的基盤のある実体だったりする。正確にいうのが難しいものを苦労して言ってくれてます。作品の完成とか、まとまった構成とか、そういうことがあまり意味を為さないのです。超越的なところに連れていくことを目的としているのではなく、超越させないように中立的な状態を巧妙につくり、描いている本人や観客の心理を誘発しているのです。これはいろんなアーティストが直感的にやっていると思うんですね。ヒロ杉山さんが選んだ大谷君の作品にもそういう所が非常にあると思うので、ここで大谷君にも作品について話してもらいましょう。
——【大谷】
 僕は絵に意味のようなものがあるとは考えていません。きれいであるということを1つの基準として作っています。どんどん作り続けていくことが大事だと思っています。最初の頃は写真などをトレースしたものに色を付けるということをしていましたが、その後、髪の毛をモチーフにするようになりました。市原さんが言う戦いというのは、僕の中では「続けていこう」という気持ちにあらわれていると思います。
——【後藤】
 髪の毛というモチーフをどのように用いたのですか。
——【大谷】
 人の顔だとどうしても意味が出てきてしまう気がしたので、髪の毛を選びました。髪の毛には形がないので描くのが面白いです。今まではトレースしてなぞっていたんですが、髪の毛だったら線を一本引くだけで髪の毛に見えます。髪の毛の質感もいいなって思います。髪の毛を描くって、終りがないんです。いろんなヘアースタイルもあるし、絵だからありえないこともできるし。だから続けていく上で、他のモチーフを選ばなくて済むっていうのがあります。
——【後藤】
 僕なりに考えるある種の反復ということを、大谷君や大野君はやっているんだと思います。同じことを繰り返すという意味での反復は、努力とか持続力が必要です。そういう普通の力っていうのは1人の人間に内包されているものなので、使うと空っぽになっちゃいます。それに対してここにいるアーティストの場合、何もないところから力がでてくる感じがするんです。もちろん大谷くんみたいなことを、瞬間的にやる子はたくさんいます。だけどこんな風に持続して繰り返し出てくるっていうのは、あんまりない気がするんですね。それがさっき言った、強度っていうことだと思うんですよ。だから大谷君の絵を素晴らしいだとか、大野君の絵を天才だとか、そういう単語では言えない訳ですけど、「どうなっているのか見物だな」って言うのは、最大の賞賛の言葉だっていう感じがしますね。
——【市原】
 僕がさっきから語っていることの延長上で言えば、戦いの武器の持つ強度には様々なものがあると思います。大野君の場合は、さっき言ったように観念の強度が作品を輝かせているように感じますが、大谷君の場合は、線の強度というものがあります。僕にとって非常に線が目立って見えるので、線によって何が描かれているのか、例えば髪の毛が描かれているとか、あるいは顔の輪郭が描かれているとか、そういうことはどうでもよくなります。その線は彼が今生きているところの制約を乗り越えようとする1つのあらわれであり、我々はそこに強度を感じているのではないでしょうか。
——【後藤】
 非常に面白い意見だと思います。ではいきなりですけど、塩田君に今までの話について思うことを言ってもらいましょう。
——【塩田】
 今までの話を聞いてですね、目眩がするほど分からないです。もう頭が痛くなるくらいさっぱりです。それが正直なところですね。
——【後藤】
 ハッハッハ。そうだと思う。では今回のグループショーに参加したプロセスと感想をお願いします。
——【塩田】
 グループ展への参加は初めてなんですか、今回運営メンバーの方からこういう形のグループ展だと提示があって、通常のグループ展とは違うので、僕はすごく面白いと思いました。実際やってみてとても楽しかったです。個展とはまた違って、グループ展の良さというか、相乗効果みたいなものがあったんじゃないかなって、大変満足しています。
——【後藤】
 塩田君は写真をやってるわけですけど、写真と絵の違いをどう思いますか。
——【塩田】
 うーん、僕はですね、差はないと思います。写真なのか絵なのか、立体なのか映像なのかっていうのは正直どうでもいいという気持ちがある中で、どこまで写真なのかという気持ちもあります。だけどやはり、あまり違いはないかなとも思います。
——【後藤】
 ぼくが塩田君と2人で話すと長くなるので、ここでは市原さんが塩田君の写真についてどう思うかを喋ってもらった方がいいと思います。
——【市原】
 塩田君は写真と絵に根本的な差はないと言いました。だからそういう視点で語った方が、写真論として語るよりは、塩田君の表現したいことがよく見えてくるのではないかと思います。写真というものは、あるものを再現します。その点は塩田さんの作品についても例外ではなく、現実を切り取っているわけですから、再現していると言えます。でもそれを写真ではないと我々が考えてしまうならば、それを現実の再現とは異なるイメージとして見ていいと思うんですよ。つまり写真ではないものの中にそのイメージが立ち現れているということになります。あくまでも思考の実験ですが、これを現実のイメージではなくて、イメージの現実と考えることもできると思います。つまり何かのイメージであるけれども、それ自体が1つの現実であるということです。僕が最初に塩田君の作品を見た時、いわゆるドキュメンタリー作家の写真とは違う、異様な光景、現実にはありえない光景として感じられました。現実を撮ったイメージなりに、現実にあった、あるいは今あるものであって、どこにあるかということを指し示すことができるものとして、塩田君の作品を捉えました。
——【後藤】
 塩田君の作品が再現的なものではないというお話でしたが、問題は少し違うところにある気がします。僕が言いたいのは、彼の作品は乖離的性格を持っていて、それゆえに予言的な力があるという点です。乖離的なイメージとは、先ほど言ったように固定されたものではなくて、流動性が非常に高いイメージのことです。揺れ動いているがゆえに、言語というスタティックなものによって精緻に留めるのは難しいわけなんです。塩田君本人も、分かってないことをしていると言っています。ただしこれを無意識っていう心理学的な単語で捉えるのは非常に危険です。そうではなくて塩田君は「スポーツ」という単語を使っています。つまり自分が分かるより速いものなんですよ。そのような構造が予言的な力を生みだしているような気が非常にします。ここで言う予言性とは、物語を前提としたものではなく、何か予兆的なるものを先取りしているというような意味です。つまり現実の風景を写していても、それ以上のものが入ってしまうということです。
——【市原】
 写真の撮り方が流動性を喚起させるんだと思います。まず塩田君はスナップショットのように見える構成の仕方を意識的に、そして巧みに考えていますが、それと同時に意識しないで撮っているという側面もあります。また動きながら撮っているから、静止画でありながらも動いている、または流動的に見えるのかもしれません。動いていることも含めて、「これはなんだ」と思わせるような、普通の写真から外れたイメージを感じます。
——【後藤】
 次に、岡田さんのマジカルに対する考えを話していただきたいと思います。
——【岡田】
 私は精神科医という立場であると同時に、アートをすごく愛しています。作家というのは自分の内側の病理みたいなものを作品として出していると思いますが、いわゆる患者さんは病理を症状として出しています。ですから人間の深い部分を知るという意味で、僕にとって両者の間に境界線はありません。そういう中で、いつからか作品が家にどんどん集まってきまして、コレクターと呼ばれるようになりました。最初はそう呼ばれるのに抵抗感があったんですが、数えると200点以上にもなり、コレクターと呼ばれても仕方ないと諦めてもいるわけです。ちょうど9.11が起きる直前、部屋中に飾っていた絵が満杯になって飾れなくなってしまったんです。それと同時にどうも最近おもしろい展覧会がないなとか、おもしろい作家がいないなと思っていました。そこでアートとは何かと考える中で、「魔術」という言葉に取り憑かれてしまったんです。まず興味を持ったのは、シュールレアリズムの文脈における魔術性です。アンドレ・ブルトンは「魔術的芸術」において、西洋中心主義の外部にあるプリミティブなものの収集だとか、フロイトの無意識の世界などを1つに括ることで、美術の見方を変えようとしました。しかし私たちの置かれた現代社会の状況を考えるならば、社会学の文脈における「脱魔術化社会」という言葉がより手がかりとなります。なるほど、様々な合理性に現代社会が支配され、魔術的領域が少なくなってきています。社会が色々な問題を起こし、大勢の人がその直撃を受けているのを見て、私はこの社会がおかしいのではないかなと感じています。その処方せんの1つとして「再魔術化」があると思うんです。つまり「脱魔術化」したために色々な問題が出てきたのだとすれば、再魔術化しなければならないというわけです。しかし世の中をもとに戻すということはできませんよね。そこで何ができるかと考えた時に、アートは本来人間にとって非常に大きな存在であるということが思い出されました。バタイユも、アートを持っているかどうかで人間と動物を区別しています。バタイユが評価したのは、しばしば最初のアートと言われる豊作を祈願する洞窟の壁画ではなく、何のために描いたのかわからないアート、つまり合理的な意味付けができないアートでした。バタイユによれば、労力を費やしてそういったものをつくるという行為が、人間たらしめているのだというのです。また、アーティストというのは論理的、合理的な説明なしに先の世界を見ていく、カナリアみたいな社会的役割を持っていると思うんですよね。アートの大部分は商品としてどんどん消費されてしまい、社会の中で飼いならされてしまっているような気がします。そこで実践的に思考しようという目的で、ここ六本木のマジカル、そして清澄白河のマジック・ルームの活動があるわけです。僕は魔術というものを、超越性へと向かうものではなく、自分の中に忘れてきたものや置いてきてしまったものとして捉えています。その意味で、市原さんの言う内在性という考えにも共感します。ここマジカルが魔術性の高いアーティストの発表の場となり、今後それぞれのアーティストが活躍していくことを期待しています。そしてマジカルの活動は社会に対する希望や失望、または絶望といったものを示し、社会を触発していくことができるのではないかと思います。
——【後藤】
 おもしろいお話でした。聞いていただいてわかるように、運営メンバー5人や参加アーティストの方々の考えにはズレがあります。つまりマジカルの活動は統一的な理論を設定せず、1つの現実を複数のレイヤーで構成しているわけです。これはある種のポスト・モダニティだと思います。そして考えが微妙に交差する部分には特殊な磁場なり力なりが発生するだろうと考えています。それに対して岡田さんは再魔術化、市原さんは観念、私は流動性という言葉を用いました。補足すると、私は流動性のモデルの1つとして音楽を想定しています。我々はこれからヘラヘラしながらDJイベントなんかをやっていくと思いますが、音楽というのはなぜ予言的な力があるのかといつも思います。ただし私は精神分析学の立場からそのような力を捉えたくはありまん。
——【市原】
 最後にもう一度、僕の考え方を繰り返したいと思います。資本主義が世界を包み込み、外部がないという状況に対して、有効な挑戦をするにはどうしたらいいかと考えた時、資本主義の中で戦っていかなければならないという制約があるわけです。アーティストはその枠の中に入り、彼らの持っている内在性によって戦っていくことになります。内在的な世界を構築するための武器として、私は観念というものを想定しています。観念とは具体的に、大谷君の線であったり、塩田君のイメージではないイメージであったりするわけです。私は、資本主義を転覆する力となるような強度をアートが持ち得ると思います。今後、マジカルというローカルな場所で、そういった強度を持つ作品と出会う場所を提供していきたいと思います。
——【後藤】
 マジカルは新人発掘の場所、ギャラリー、イベントスペースといった多様な側面を持っていまして、いわゆるコマーシャルギャラリーでもオルタナティブスペースでもないと言えます。我々は様々な才能と出会いたいという強い気持ちからこういった活動を始め、今回とても手ごたえを感じました。今後も様々な活動を続けて、あの2年はなんだったのかというふうにしたいと思います。
 では何か質問のある方はいらっしゃいますか。
——【質問者】
 戦いに勝つというのは市原さんコトバではどういう意味ですか。
——【市原】
 恐らく戦いに勝つということはできないと思います。なぜなら、勝つというのがどういう状態かわからないからです。なので勝つという希望を持って戦うしかないのではないかと思います。勝った後に、アートの内在的世界が普遍化してユートピアが訪れるかもしれないし、逆に1人のアーティストの世界観がファシズム化して全世界を支配するかもしれません。僕の考える戦いはユートピアを目指していますが、結果的にどうなるのかわからないのです。だから内在的な力がどのような方向にむかうかが重要なのです。
——【岡田】
 本当にその通りだと思います。もし戦う相手がいたら、それは楽なんです。でも実際は戦う相手が見えない中で戦いを続けていかないといけないので、とても難しい時代だと思います。自分との戦いと言うとすごく平易ですが、それを続けることで自分の人生の質を高めることができるのではないかと思います。みんな自分の中で戦って生きていってほしいです。
——【後藤】
 人は死ぬじゃないですか。じゃあ作品が勝利するのかって、思ったりします。作品は非常に機械的で、死んでから値段が上がったりするわけです。だから勝利するとしたら、人間ではなく作品だと思います。それは皮肉な勝利かもしれませんが、そういう形しかないと思います。また違う考え方をすると、勝利の妄想ということがあると思います。ある種の絶頂感と言ってもいいと思います。しかしそれは、虚像としての超越性を捏造しているわけなんです。ということは、例えば大谷君がやっているような持続と反復でいいんだと思います。もし勝利ということがあるとすれば、人間の勝利ということではなく、持続性の勝利なんだと思います。
 今日はみなさんお越しいただきましてありがとうございました。