Talk Show by Kentaro ICHIHARA+Daisuke OHBA

April 22, 7pm-

 

 

市原:さて今回は第一回目の個展。基本的にはここが狭い空間ということもあって、一人のアーティストを、一つの空間で、ある一定の時期で見せるといういわゆる個展形式で展覧会をやっていきたいと思っています。そしてその間にグループショウを挟んでいこうと。第一回目の個展のアーティストは厳しく選ばれて、本人もかなりのプレッシャーを感じるのでは、と思っていました。仲間とリサーチしていくうちに大庭くんの名前が挙ってきて、いろいろと議論した結果、結論としてここに展覧会が行なわれているように彼に白羽の矢が立ちました。(後ろに大物アーティストがガラス越しに来ていますよ。大庭くんもそのうちあのようになりますから。)そういうことで、彼に頼んだら快く受け入れてくれて、このような展覧会に仕上がったのです。
そういった意味で、最初の重責を担ってくれたということで、僕を含めたメンバーから最初にお礼を、どうもありがとうございました。これからいろいろお話を聞いていくわけですが、まず最初に、この場所は元々知っていたと思うけれど、やると決めた時にどういうふうに思ったのか聞いてみたいのだけど。


大庭:はじめまして、今回出品している大庭です。はじめ市原さんに頼まれた時は正直緊張していました。元々ヨシイギャラリーがここにあってずっと見ていたので、高さのない空間でしかも奥が狭くなるのでどう構成しようか、自分自身今まで作ってきたのがわりと平面と立体という展示なので、そういう展示が本当にできるのか、というのはありました。

市原:それまでグループショウというのはあっても個展という形で展覧会したことは?

大庭:個展はなく、グループショウを結構やっていましたが、1枚出して終わりという展示ではなくて(一人)一つの部屋を使って、その部屋が何個かあるグループショウのようなことはよくやっていました。

市原:ということは展覧会をするときはグループショウの場合も自分の個展をするというような心積もりで展示をしていたということですよね?

大庭:そうですね。だいたい最初からそんな感じでしたね。

市原:アーティストとしては1つ1つの作品は独立しているわけだよね?それを切り離して観てもOKだし、その方がむしろ一つの完結した世界が現れるかもしれない。でもあなたの場合は1個1個の独立した作品を更に構成して世界をつくるのだと。基本的にどういうことを考えてやっているのかと。

大庭:もともとその、平面というか油絵科なのでずっと平面をやっていたんです。平面をつくるということで最初小さい立体のような形で発生させて、それが平面をつくっている中で違うことというか、今回映像を出したり写真出したりしていますが、そういうものは割と最初からあったというか。ただ単純に技術的な部分でできなかったりとか、もちろん経済的にもできなかったというのはありますが、観る人によってはもしかしたらバラバラな印象を受けるかもしれないですが、わりと自分では絵画から発生してきたというか、自分としては自然な感じで写真のようなものになったり、映像的なものになったりしているんですね。それは、ああしようこうしようとかではなくて、平面をつくっている中で立体が発生して、自然に出てくる感じなのです。

市原:ということは、絵画の作品だけではなくて写真も映像も、これを立体と呼んでいいかわからないけれどもこういう壁があったり奥にあるトロフィーの作品も、大庭くんとしては同一線上、同じ世界の延長上にあるものとして、表現手段は変わるけれども同じような表現をしていると、そういうふうに考えていいわけですね?そうするとある意味こういう空間の中で、どんな表現手段であれ、並べていっても違和感は本人の中では特にないのだと思う。でもやはり1点1点の作品とこの空間にインスタレーションした場合の表現の仕方というか、あるいはその世界の立ち現れ方が、全く同じなのだろうか。もし1点だけでもいいから作品を出しなさいと言われて、1点だけを提示するような要求をされた時にはどういう扱い方をする?つまり1点だけでも構わない、それともこれだけあることによって初めてあなたの世界が伝わると思っている?

大庭:それは、その時々のつくってきた方向性によると。自分自身できていないことは正直いっぱいあるし経験は少ないと思っていますが、その中で、作品数が空間の中で1つになったり増えたりするというのは、その時その時で変わるのではないかと思っています。1点で自分の中で満足するというのも多分あるだろうし、もっとぐちゃぐちゃになるようなこともありえるだろうなと思っています。今出す形というのが自分としては素直だというのはあります。

市原:最終的にインスタレーションというか、こういった配置の仕方になったけれども、今回何かテーマがあるとすればどんなものだと思います?

大庭:テーマは、今まで思っていたことなのですが、今回展示してみて本当にそうだったのかという疑問が出てきたんですよね。平面から出発して、見え隠れするような絵画から派生しているので、表層的な部分だったのかなと思っていたんですけど、そうではないという気がすごくしているんですね。だからテーマと言われて一言で言うと誤解を生みそうなのであまり言えないな、と。

市原:テーマについてはこれからじっくり話していく中で、一つの言葉だけでは表現しきれないものを総合して皆さんに話してもらうという…

大庭:割りと魔術的なことというか、たまたまmagicalというこのギャラリーの名前と重なっているかもしれないですが、魔術的なことであったり、そういうことなのかなと…

市原:それは以前にはなかった考え方が芽生えてきて、そういった言葉で語りたいということかな?

大庭:いえ、前はもっと単純に言葉が先にあって、言葉って表層的なものかなと勘違いしていたので。そういうのが先にあって裏側に魔術的なことだったり、現実的なことだったり、神秘的なことだったりというのがありましたが、今回前に言っていたことを押し上げてでてきたような感じがしていて。

市原:ということは、さっきも言ったような意味でmagicalの最初の個展だから、本人もかなり自覚的にやってもらったとは思うけれど、今までやってきて、やろうとしていることがより明確に現れて頭の中でも明確に捉えられるようになってきたと。そういう理解でいいのかな?

大庭:う〜ん…たぶん変わってきていて、今までやってきたことの派生でやってきているから続かないというか。僕の作品はこういう感じですといったものはまだ先行きがつかないんですけど。

市原:大庭くんもそれから目の前で話を聞いてくれている皆さんも非常に若いのでね。恐らくアーティストあるいは学生の方達がメインだとは思うけれど、当然のことながら自分のやっていることがまだまだその若い年齢ではっきり見えてこないのは当然だし、やっているなかで徐々に見えて来るものだから、今の大庭くんの発言は当然のことだとは思うんだけどね。実を言うと僕はいろいろと見させて頂いているので、僕が教えているということもあって大庭くんの作品は関西でもグループショウという形でいろいろと見せて頂く機会があっていつも思っていたんだけど、観る時にまず2点あるわけですよ。基本的にはタブロー、トロフィーの作品も見せてもらってはいますが、絵画の作品に関して言うと一つはイメージの問題があって、そのイメージが非常に希薄である、ということです。何が描かれているか、その主題とかモチーフが消えそうになる。蒸発してしまう。揮発性のイメージのような感じがするんですね。ですから実際絵の具が塗られているものよりもイメージとして捉えたほうがいいですね。それがイメージの形式といったらいいのか、外見に対する僕の印象です。内容に関して観ると、今はここには出てきていないけれど、かなり怖いイメージなんだよね。一番向こうにありますが、あそこに描かれているイメージの内容というのはホラームービーから取ったのかな、その登場人物なわけですよ。だからこの2点つまり形式面における揮発性と内容面におけるホラーの怖いイメージというものが僕の印象にずっと残っていて、何故こういうものを描くんだろうというふうに思っていたわけですよ。もっと綺麗なものだったり可愛いものだったりを描いてもいいのではないかと思ったし、それがほとんど全てを支配していたというか占めていた感じがするわけですね。では、今言ったような、内容面からいこうか、ホラーのイメージを用いた理由あるいはきっかけは何だったのだろうか。

大庭:はっきりとは言えないかもしれないですが、丁度僕が大学に入った頃は、村上(隆)さんとか奈良(美智)さんがものすごく波がきている時で、横浜トリエンナーレ2001年や東京都現代美術館でやっていたんですね。そういうのを見て、大きな枠組みで見た時の感想としては、「かわいい」ということをものすごくやっているではないですか。「かわいい」って自分の中で全然グッとこないというか、拒否反応がすごくあったんですよね。かわいいっぽいこともしてみようと思った時期もありましたが。ホラー映画はよく観るのですが、別に好きではないし、血が出たり。献血もできなくて、僕、血を見ると倒れるというか、すごく嫌なんですよ。ゾンビも実際にいないし。メイキングまで見ると、実際怖さは半減しますが。そういうビジュアル的な怖さというのを絵にした時に、自分の中でしっくりきたというか。すごく深い理由というよりも、単純なことを言ってしまえば「かわいい」のがすごく嫌だというのが、丁度自分が美術を始めた時に美術手帖などや世間的にかわいいものが流行っていたり、癒しであるとか。「癒し」ってなんだろう?というような反発がありました。

市原:若い人たちは特にそうなのだけれど、その前の世代がやっていたことに対する反発ね。例えば大庭君が言ったようなことというのは普通に行なわれているから、どの世代もそうなわけだよね。おそらく奈良、村上も「かわいい」を出していた時はその前にあったシリアスなものに対する反発として出てきたのかもしれないわけね。そういう意味で言うと大庭君の彼らに対する反応というのは、まさに前の世代に対する反発であり、それに対する反撃であるという意味ではまっとうな反応の仕方なのだけど。でも作品を作るときはそれだけが要因になるわけではなくて、見る人に向けてそのメッセージを発するわけだから、そういった怖いメッセージは見る人にどのような影響を与えるか。あなたはホラームービーを観るのはそんな好きではないし、怖いものは嫌だというわけですよね。実をいうと僕もそうなんです。僕もあまり観ないけれど、一時すごく流行っていたことがあって観たわけですよ。で怖いわけね。見る人たちに向けて怖いイメージがどういった影響、効果を及ぼすかっということについてはどういうことを考えたかな?

大庭:うーん。

市原:あまりそういうことは考えなかった?

大庭:そこではないというと多分嘘になってしまう気もしますが、ゾンビを扱う時に、一応本を読んでみたんです、ゾンビとはどういうことなのかのような。「ドール ザ デッド」といって、日本語では忘れてしまったのですが、それはジョージ.エ.ロメロが作ったんですよ。それは怖いことをやりたいというより政治的なことがすごく背景にあるようで、僕らも映画的に言うとゾンビのようなものではないですか、別に行きたくないのに働いて電車に揺られて、のような。ゾンビというイメージは最初にパーンと思い付いたりしますが、その裏にある背景というのは、僕はどちらかというとコンセプトや概念を作っていないというのもあるので、割りとイメージが先にあります。でも世の中にものすごくイメージが反映しているので、でもやはりお金を出して、ものを作る時に嫌なものって作りたくないし、どこかでピンときたものを作りたいと思うんですよ。そういう時にゾンビというのは調べていった結果、割りと政治的な背景があるなっていう風には思いましたけど。

市原:僕があまり観ないホラー映画の中で、唯一と言っていいかもしれないけれどロメロの映画って僕好きなのよ、実は。で、ロメロに関しては他のものとは全く違ったものがあって、今言った社会的な背景、つまりベトナム戦争といったものが、彼らがああいったホラームービーを作る時に非常に大きなバックグラウンド、社会的状況に対する彼らのある種の姿勢みたいなものを、ホラームービー、つまりゾンビものの中に反映させたというようなことはよく言われていますよね。これからもそういうことが追々問題にはなってくると思うけれど、ではなぜロメロのホラームービーに出てくるゾンビが他のムービーに出てくるキャラクターと違うかというと、異様に死界なんですよね。殆ど人類が滅びようとしている状況で何人かは残っていたり、必死で逃げてね。人間がゾンビに襲われたり犠牲になったり、あるいは噛まれることでゾンビ化するというのは悲惨な物語というか、人生の顛末を描いている映画なのだけど、その中で登場しているのは2、3人の本当に少ない人間とあとは殆ど全てゾンビなわけじゃない。ゾンビが持っている存在感ってすごいじゃない?つまり人間ではい、ほとんど死体、死人なんだよね。死体というのは基本的にモノだから、そのモノが持っている存在感って凄く感じるんだよ。ところがあなたの絵を見ると、さっき希薄って言ったよね。全く対極なんだ。同じゾンビを扱っていてロメロのゾンビを参照にしたかはわからないけれど、出て来た結果は片やロメロのゾンビはものすごい存在感を持っている、片やあなたの作品に出てくるイメージは、さっき僕が揮発性だって言ったように、非常に希薄なものである。その谷って僕はすごく面白いんだけれども、その辺って何か意識してやっているのかな?

大庭:多分意識していないですね。

市原:意識していなくてもいいけれど、今、僕の指摘をしてもっともだと思うって言ったでしょう?
何か考えるところある?どうしてこういうふうになったのか。

大庭:それは多分ピンときて、そういう揮発しそうな画面に描くことに対して考えることはあるということですか?それは何なのですかね。何を僕が思ってあれにのせているのかというのは正直謎なんですよね。

市原:ああ、そうかー。自分にとっても自分の作品がマジカルみたいな(笑)

大庭:かなりマジカル。

市原:(笑)

大庭:そこで、言い訳を言ってしまうと嘘だなと思ってしまうんですよね。真面目な答えをすると、作ってからすごく時間が経ってやっと自分がやったことが理解できるっていうことが多いので、今は考えてないって言った方が正解なのかなと。

市原:あの、アーティストや学生も含めて、自分のやっていること全てを克明に説明できるかというとそうでもない。もちろん説明できるようなコンセプチュアルアーティストもいるので、そういうタイプの人はそれで、出来ない人は出来なくて全然構わないのだけど、残念ながら僕はアーティストではなく評論家なので、なんとか説明をしたいと思っていろいろ考えたわけですよ。僕は彼の作品を見た時に、ロメロのゾンビというのはすごく愛着を感じるんだ。だから僕は犠牲になるのは構わないけど、噛まれてゾンビになるのは適わないなと思っている(笑)

大庭:ちょっと今ふと思い付いたのですが市原さんがジョージ・ロメロのゾンビを見たのは何歳ぐらいですか?

市原:80年代です。だから大分歳とってからですよ。

大庭:僕の場合は81年に生まれています。ここに来ている人達って多分そのぐらいかもしれない。70年代から80年代前半だと思うんですけど、めちゃめちゃ怖かったんですよ。ただ、今見ると明らかにギャグなんですよね。

市原:(笑)

大庭:あの当時ってすごくホラー映画やっていたじゃないですか。宮崎努のような感じがでてきた時に、ホラー映画が並んで。でも今やらなくなったじゃないですか。丁度僕が幼稚園や小学校の頃ってしょっちゅうホラー映画やっていたんですよね。13日の金曜日とかバタリアンとか。そのバタリアンで脳みそを砕くといった感じのものを夜9時とかに見ていると、本当に怖かったんですよね。

市原:でも見たんだよね(笑)

大庭:もう見ていられないといった感じなんですよ(笑)でもそのイメージは凄く強くて。だから兄貴に無理矢理叩き起こされて、兄貴は怖いから一緒に観させられるんだけど、その時の印象が凄く強くて。でもいつのまにか自分が大人になってきて、そういうことを斜めから見られる年頃になってきたんですよね。その時にホラー映画を見ているというのは、昔からちゃんと理解していたというよりもここ数年の話なんですよ。
多分市原さんの世代の人達はもう大人になっていてああいうのを作り物だと思っていた訳じゃないですか。僕らの時って完璧な作り物ではなくて、現実とイメージの境界線が分かっていないというか、思い込みのような。夢なのか現実なのか分からないラインというのがあって本当の意味での過去にある恐怖心というのが世代によって変わってきているのではないかとすごく思います。

市原:確かに僕が若い時に、小さなあなたと同じぐらいの歳に見たもので恐怖を感じさせたものは脳裏に残っているよね。

大庭:それはどういうものですか?

市原:えーと今ちょっと口を滑らせて言ってしまったのだけど、今となるとほとんど忘れてるな。でも怪談話とかね、我々の時代はまだまだテレビではやっていなかった訳ですよ。要するに子供たちの間でする幽霊屋敷の話とかね、ああいうのは未だに残っているよね。そういう意味では時代が違えばその内容も、それを伝えるメディアも変わってくるから。先程の話に対して僕は止まっているのだけど、ゾンビに対して愛着があるというか、もうこのぐらいの歳になると死ぬことが近いということもあって愛着が浮かぶのかもしれないし、あるいは、我々の生きている時代が全てといっても良いぐらいにゾンビ化している、人間がゾンビ化しているというような時代。良い検証とは絶対思わないのだけど、その中でゾンビとして生きるにはどう生きたら良いのか。ゾンビとして生きるというかゾンビとして死ぬ、かもしれないし、死んでいるのか生きているのか分からない状態の中でどう生きたら良いのかということを知って考えるという意味でも、ロメロのゾンビに対する共感というのは生まれてきていると思う。それは置いておいて、あなたの作品のゾンビを見た時に、実はロメロに感じている共感や愛着ではなくて、恐怖を感じる訳です。完璧に。それが凄いことなのですよ。恐怖や不安を感じる訳。希薄なイメージの方に。あなたの作品、僕は最初見た時に恐怖を感じて、つまりあなたがテレビを見て恐怖を感じて見ないのと同じようにして、僕は見なかったの(笑)今は大分慣れたので見られるようになったけれど、それでもやはりそれはあるわけよ。だからあなたがこういった風景や他の人物を描いてくれるようになって、僕は凄く嬉しい(笑)

大庭:(笑)

市原:ずっとこれをやっていたら、僕は多分君を取り上げなかったかもしれない(笑)まぁ冗談だけど、そういう感じなんです。つまりロメロのような存在感のあるゾンビというかホラームービーのキャラクターではなく、逆に揮発する油絵という希薄なイメージに恐怖を感じるって、僕は凄いことだと思うんだ。そのリアリティが逆にある訳だから。その効果というのはどうして出来たかというと、まさにその希薄、揮発しそうに希薄なイメージだからこそ、そこから出来たリアリティだと思うんだよね。あなたはどうしてそんなに希薄に描いたんですかって言ったとして答えは多分ないと思うんだけど、直観的に感じていて、小さい頃体験した記憶を再現しようとした訳ではないと思うんだ。逆に言えばそれを和らげる、緩和するつもりで希薄にしたのではないかと思うけれど、実はそうではなく、希薄にすればするほど恐怖が増すようなものだと僕は思っているんですね。そういうことはあまり意識しないのかもしれないけれど、他のゾンビ以外のモチーフもあるのんで、他のものに関してもちょっと聞いてみようか。これはどういうところから出来たのだろう?

大庭:よくホラー映画をモチーフにしていると思われがちですが実はホラー映画だけではないんですよね。シリアスな部分であったり。DMになっている女の子のものは「ポルターガイスト」の女の子なんです。あの女の子って映画録り終わった後にすぐ死んだんですよね。そのベッドのものは、「サイコ」という映画の死体であったり。他には「スリーピーホロウ」のこれから怖い事が起こるぞ、というような。「スリーピーホロウ」といって首を切って木の根本に埋めるというような、ティム・バートンやジョニ—・デップが出ている映画なのですが、わりとそういうところから持ってきているんですね。この風景のものは、戦争で完全に潰された風景なんですね。

市原:では選んでいるモチーフの元になるものというのは、やはり映画が多いということですか?絵に描かれているモチーフの出所なのだけど。

大庭:そうですね。今回の展示で持ってくるイメージというのは全部映画に限定しようと思って。

市原:そういう意味でいうと彼が描いているものは、恐怖とかを掻き立てるようなイメージな訳だよね。そして先程言ったように、希薄なイメージだからこそ、そういうものを余計に感じる。特にそのホラームービーの人物のイメージというのはそれを感じさせるんですよね。先程の村上なんかがやっていったその可愛さに対抗してそういうのを出したのだけれど、実はその村上が言っているスーパーフラットというのに、彼のイメージも近いような感じがするわけ。何故かと言うと希薄なイメージというのはかなり表層なわけです。表層というのはフラットという意味。しかもフラットにイメージを描いているという意味では、あなたがそれに対抗して出てきたような、迷い(?)の世界の描き方もそういうのに似ていると思うんです。ただ僕が言いたいのは、そこにやはり大きな違いがあって、更に表層的だと思うんだよ、彼らよりも。だから彼の作品というは、絵画は特にそうだけど、村上が言っているようなスーパーフラット、つまり全てのものが横並んでいる、上下関係もなければ分け目も何もないという以上に、もう表層も表層。正に我々が見た表面においてしかないからこそ、僕は希薄だし揮発しそうに薄っぺらなイメージになると思うのね。薄っぺらいというのは悪い意味じゃないですよ。そういった非常に希薄なイメージが活きていると思う。それは実を言うと写真も同じなんですよね。写真もすごく表層的に見えるし、それから映像もそうなんです。映像だから当然奥行きもあるでしょ。だからそういう意味で言うと今言った表層的だというのと全く反対に見えるかもしれないけれど、実はこれが正に表層であって、表層の出来事として遠近的な奥行きがあるように見えるだけなんだよね。僕は大庭君の、さっき言った表層の更に表層的な意味に見えたりするんですね。だからこそ逆にあなたが迷宮を、迷路を選んでいるところもあって、恐らく迷路としての表層、としての迷路なのかと。あなたが意図しているかどうかは別として、恐らくその迷路を選んだというのは正に表層でしかないものが迷路に見えてしまうから。迷路という奥行きがあって、でもずっと行っても出口が見つからない。つまり表層だから出口が見つからないんだよ。表層でなければ奥まったところには何か出口があってそこから外に出られて解放されるとかあるかもしれないけれど、正に表層で見る人間をトラップするというか、罠にかけるということをやっていると思うんですね。恐らくそのトロフィーという立体作品も、表面のちょっとした光沢というのか、そういうものを含めてやはり表層的に見えちゃうんだな。だからその表層というのは表層的ではないというのではなくて、正に表層になれるマジカルであり、神秘ではないかと。と思うのだけど。こういう言い方はどうでしょう。

大庭:何か勉強不足なので、あ、そうかって思ってしまいますね(笑)ぺラペラっていうより、いろいろなことを言われるわけです。バラバラだと言う人もいれば、映像が良いと言う人もいれば、平面が良いと言う人もいれば、ダメだと言う人もいるわけですよ。でも自分としてはかなり繋がっているんです。迷路を使おうと思った理由は、その表層的なことと言うのは作っている時、むしろ展示して気づいたという部分が凄くあって。最初にもってきているのは、多分僕らぐらいの世代だと分かると思うのですが、小学校の時に学校のノートを使って迷路を描いたと思うんですね。そういうのがものすごく気になっていたし。丁度幼稚園か小学校の低学年ぐらいの時に迷路が流行ったんですよ、田舎に行くと迷路のようなアトラクションが一時期、多分たけし城か何かの影響でやたらとあったんですよね。ゲームも「女神転生」や「ファイナルファンタジー」、「ドラゴンクエスト」と、いわゆるそういう世代なわけですよ。ものすごくバーチャルでゲームばかりやっていたというような、勉強もしないで家帰ったらずっとゲームしかやっていないというような世代なので。僕は迷路を使うことはものすごくアリ、だと思っていて、でも何か敢えて使いたいと思わせるものが強いんですね。そしていろいろ調べていったら中世ヨーロッパなどで凄い金持ちのブルジョワの家の庭に迷路があるらしいんですよ。ハリー・ポッターなども迷路のシーンがありますが、そこで悪霊を閉じ込めるらしいんです。そういうのが引っ掛かったと言うか、でも実際迷路がすごくちゃんとしたアトラクションだったら入ってみたいなと思って。見てみたいというのがありましたね。

市原:つまり迷路に対する馴染みというのは昔からあるというわけですね。

大庭:付け加えになりますが、この迷路のものはCGなんですよ。CGってワイヤー、フレームに対して写真を貼付けた状態なんですよ。絵を描く時に表面からベタッと貼るという、描き方的な部分で言うとシルクスクリーンでやるんですが、いわゆる重ねテクというか。そういう作業がわりとCGを扱うということにものすごくはまったというか。

市原:作業の仕方が似ている。

大庭:作業の仕方が似ているというか。

市原:なるほどね。その結果として迷路のような奥行きある空間があてられる。でも先程言ったようにまさしく表層しかないと思っていて、そういう意味でいうと村上なんかが言っているスーパーフラットを更に超える表層性というものがあなたの作品の特徴になっていると思う。恐らく彼の作品の1点1点は個別に見るならば写真は写真、立体は立体として見えなくもないけれど、全体は彼が意図しているとおり、徹頭徹尾表層的に見なければならない感じですね。表面を舐めるようにして見る必要があるだろうし、表面として見る。表面と言うのは存在がないわけです、そこにあるのは単なるイメージだけ。物質的な存在のないイメージなわけだから、純粋イメージなわけだよね。そういう目で彼の作品を見る必要があるし、そういう目で見ないとこの作品の統一性というか、一貫性というものを見えてこない感じがします。トロフィーの立体作品なんかもまさに表面、表層で見るということを試みているし、そういうふうに見ることが可能だと思っているけれども、トロフィーはモチーフとしてはどういう感じなの?

大庭:いや単純にかっこいいと思ったんですよね。トロフィーというと正直かっこわるいじゃないですか。インターハイ優勝のような感じだったら欲しいかなとは思うけれど、中途半端ものでゴーンともらっても、飾る場所もないしどうしようもない。しかもそこに勝手に誰かが意味づけをしたものだから、たぶん笑えるものなんですよね。でも異常に見た目がカッコイイですよね。もしかしたらそのカッコイイは僕らの世代のものかもしれないし、勝手に僕が思い込んでいるのかわからないですが、ゲームにあるような伝説の塔に見えたり、強い武器にみえたり。胡散臭いんですよね、形とか全てにおいて。俺もトロフィーがカッコイイというのが先にあって調べたのですが、トロフィーって実は中世で戦争に行って何かモノを奪って来た時に、それらを積み重ねた形なのだそうです。でも現在あるトロフィーって、その時は肉とかいろいろだったと思うんのですが、女の人や聖杯や剣だったり明らかに違う。寓意的なよく分からないものだったりしますが嘘なんですよね。勝手に誰かがトロフィーデザイナーだったとか、いつが起源だか分からないですが、ここ数十年の話だと思いますが。

市原:そういう意味でいえば、歴史を辿れば歴史的な蓄積がしっかりあるわけだけれども、今となっては消えかけている。まさに見かけでしかないわけですよね。僕は先ほどから彼の作品は表層の表層でしかないということにあてはめて語っているわけだけど、もちろんそうではない見方もあるかもしれないけれども、そう言う見方が一番面白いと思っているし、そう見ることによってまた違ったものが見えてくるというか。おそらく大庭君の背景にある考え方というのが、あなたは自覚してないにせよあるんじゃないかと。それは凄く特殊な考え方であり、特殊というのはつまり美術界の他のアーティストが作品をつくる時の、世界観というか考え方の枠組みというか、が何か根底から違うような感じがするんですよ。だからあなたの作品は恐らく美術界のなかで理解されるのに相当時間がかかるかもしれない。さっきゴッホの話が出たけれど、弟のテオにね、弟さんいらっしゃるかな?帰っちゃったか、彼に生活の面倒みてもらって生涯作品が売れないというようになりかねない。聞くところによると焦っているようだけれど。

大庭:実家が静岡で東京に出てきていて、システム自体がいろいろこういうところと絡んだりして、実際に作品が売れて。自分の家賃など払わなくてはならないですが、地味に高いんです、5万とか。やはりフリーターして15万くらいですか、それ全てが家賃と食費に消えて残らないから正直どうしようかなとは思っていますね。実家に帰ってフリーターしたら全部制作に費やせるので、そういうのもありかなとは思っていますが。そういう意味ではたぶん皆も焦っているとは思うんですけど。

市原:こういう話はどうでもいい話というわけではなくて、今目の前にいる人達も事情というか環境は似ていると思うので、お互いにいろいろ、どうすればいいかなというのを考えなくてはならないと思うんだけれども。それこそゴッホの時代、20世紀の終わりと比べれば、今はアーティストが生きていくのはそんなに難しくなくなりつつあるから、それこそ日本人のアーティストが先程からずっと名前を挙げている奈良・村上はじめとして、世界で受け入れられて世界の美術市場で作品が販売されて流通しているような時代になっているので、先程言ったようにゴッホが死後初めて名声が出るということはないとは思うけれど。またゴッホの話をするとオランダの片田舎から出てきて、君も静岡の片田舎から出て来て(笑)、なんとか成功したいと思うけれども結局アルルに行くのかなぁ(笑)アルルに行ったら最後はゴーギャンと喧嘩して(笑)。そうならないように祈っているけれどね。今は余談だったけれども、何故彼の作品が理解されにくいかと言うと、先程言った大きな枠組、世界を構築している大きな枠組が、少し前に話した物質的な存在のないイメージというものを扱っているけれども、実際はそれを形づくっている基礎になるものには物質があるわけ。そこで、その二元論だと僕は思うわけです、あなたの作品の基礎になっている考え方が。それは僕の今の解釈が正しければ、今のアーティストつまり現代美術をやっているアーティストは、それをうまく折り合いをつけているけれど、あなたは純粋に分けようとしている。それを僕は凄く大事だと思うし、うまくいけば美術界というか美術の今までの枠組というかな、を変える、つまり表現のパラダイムを変えるだけの大きなインパクトを与えることができると思うんですよ。それによって新しい時代、つまり20世紀の新しい表現、新しい時代の礎に、先駆けになる可能性があると思っている。もちろん本人は意識していないだろうし、意識する必要もないし、自覚して本当にゴッホみたいになっては困るから(笑)。今言った二元論、物質と純粋なイメージ、は対立しているわけではなく、相互に補っているような関係にあるわけです。そうでないと作品もできないわけで、素材がなければこういったイメージも生成することはできないわけで。そういう意味で言うと、物質的な存在と純粋なイメージはコインの表と裏のような関係になっていて、それがあなたの作品の基本的な構造というものを成り立たせている原理だと僕は思っているわけです。もちろん全く意識しないでやっていると思うけれど、僕はこういう話をあなたにするということによって、これを意識するかどうかは別として、これから作品をつくる時に、それをもっともっと純化するような形でちょっと参考にして欲しいなと。だから非常にイバラの道になっていく、僕はそれを押しやっているわけだけども(笑)magicalでもう一回やりたければそういうことをもっと明確に表せるように(笑)。ごめんなさいね、脅しているわけではないんだよ。そういう方法で少し考えることも参孝にしながらやっていって欲しいなとチラっと思うわけです。

大庭:ちょっと分かりづらかったのですが、もうちょっと簡単にいうとどういう…

市原;二元論があると。つまりここにものがあって、我々が普通見るときは実際に形のあるものしか見えないわけだよね。ところがあなたの作品というのは、例えばこういうエビアンのボトルの作品としよう。そうするとエビアンの、見た時の表面だけのイメージと、エビアンのボトルを作っているプラスチックとかそういうもの、が分裂している、別れている。そういうふうに見ないと、やはりあなたの作品の凄さって見えてこないと思う。そう見ることによって初めて先程言った恐怖もより強く感じるし、その作品の持っている恐怖や不安、ある種の感情的なインパクトもより強く感じるわけです。

大庭:普通の場合はエビアンの表面と内側は一緒になっている。

市原;そうそう、だから形式と素材はまさに一体化しているわけ。ある意味、作品というのは古典的なものでも、形式と内容は一致する、だから形式と素材も一致しないといけない。そういう意味で行くと、あなたの作品にはそういう古典的なものはなくて、その逆をいっているわけです。それが可能かどうかというのは、今まで誰もやっていなかったし、出来なかったし、少しやっていると思うのは、僕は西田さんだと思うんだけれどね。そういう意味で言うと、トロフィーの作品はまさにそうで、表層のイメージとそれを形作っている素材というものが分離した形で見なければならない。もちろん見るときはそのイメージだけから見る。すると、イメージが物質感を持っていないわけで、そういったものは誰も信じられないし、見たら怖いわけです。だからあなたはどんなイメージを描いても、それに対して恐怖を感じるようにして欲しい。そのぐらいの自信はあります?

大庭:全然ないですね(笑)やってみないと分からないですね。

市原:でもやっていることの到達地はもちろん見えないけれど、やっている過程の中で見えてこないとおもしろくない。ある種の理念を提示するのがアーティストの役割だろうし、中途半端にやるんだったらやめちまえと言いたくなってしまう。この時代は理念がなくて、そういうものがあまりにも多すぎてしまっている。村上さんや奈良さんの真似とか、装飾だけで何もないわけですよ。

大庭:それはすごく思うところがあって。なんかかわいいとか、表面的に真似している人が多いなって。

市原:表現の真似ですね。彼らには彼らなりの理念が少なくともあるんです。それを次の世代の人が真似てしまうと、何もなくなってしまう。反復する中で、精神的な意味を切ってしまう。そういうのだけにはなって欲しくないし、そうではなくて、あなたはもうそういった方向に進んでいる。今言った世界観のようなものを理想的な形で提供できるのがアートだから、それがもしできれば、アートにおける革命になるだろうし、アートを住み込む現実そのものの変革にもなると思うのです。例えば19世紀ならゴッホを始めとして、それ以前だと印象派から後期印象派の人達が、変えた、もしくは変わりつつあることに寄与した。そして今も、現実が変わりつつあるその変動期にあって、それに見合った若いアーティストたちは、無意識のうちにでもそういうことを提示してくれると思うんだよね。そういうことで言うと、君はその中に加わることができるアーティストだと思っている。世界にはたくさんいます、日本には君だけですが。これはぼくの感想で、将来どうなるかはまだ答えは出ないですけれど。今言ったことは、この短いコメントの中では分かりにくいとは思いますが、最近僕は例えば内在性という言葉を使ってそういうことについて書いていて、内在性というのは純粋イメージ世界のことを言っていて、外在性というのは物質の世界のことを言っている。その内在性と外在性というのは表裏の関係にある、それが1つの世界観と新しい世界観であるかもしれないと。それで大庭くんの作品の凄いところは、内在性の純粋なイメージだけで終わっているのではなくて、その境界線にいるということなんだよね。あなたは両方を合わせ持つような作品を作っている、ということなんです。現実の世界に生きていて、中心ではなくて辺境や境界にいるというような意識は、どうですか?疎外感みたいのは感じない?

大庭:うーん、疎外感まではいかないですね。走らないと落ち着かない、というようなのはあります。

市原:あなたは境界線に立っているので、その両方を見ることができる。しかしそれは危険でもあって、もしかしたらそれは亀裂かもしれない。亀裂に落ちてしまったら、溺れてしまうかもしれない。それをどううまく折り合いをつけながらこれからやっていくのかということは、非常に期待もしているけれども、危険性も高いなって。自分ではどう思いますか?

大庭:続けてはいきたいので、自己探究をしっかりしたいです。

市原:あまり焦らないで、やっていってほしいな。そしてそれが許されるような、偉大な作家であるかどうかということもあります。そしてもう一つ、悪い意味ではなく、イメージが貧困というか希薄なイメージで人を納得させることができるか。その戦略として、持続するということもあるだろうし。ただやってることがなかなか人に伝わらない、という可能性はかなりあると思うんだけど。

大庭:正直思っているのは、作品を作って食べていかれればいいなとは思いますが、実際ものを作る時に自分に嘘はつけないので、多分その時その時で変わっていってしまうのではないかなって。僕は色を使っていないから、地味だとは思うんですね。でも今はこれを作っていて、しっくりきている部分は割とあって。例えば、以前見てもらったものとは表面が少し違っているわけで、そういうのはこつこつと変わっていくのではないかなって。

市原:さっき言っていたように、基本路線は変わらないわけだから、表面の作り方が少し変わった時って、例えば普通の人は強いイメージや派手なイメージを求めるわけだから、ギャップがあるような感じはするんですが。難しいですよね。だからいろんな機会を捉えて、展覧会をたくさんすることによって、人々に理解してもらうように心掛けるしかないというか。では最後に、あなたの決意表明を。

大庭:僕は80年代生まれとして頑張っていきたい、というのはありますね。奈良さんや村上さんという人達は上にいて、同じ世代でデカイムーブメントとして。日本はアニメしかできないというのはむかつくので、そういう偽ものではなく、もっと本質的なところでやっていけたらなって。

市原:まったくその通りですね。同じことやっていたらどうしようもないわけだからね。
・・・・・・・・これで終わります。